2009年1月28日(水)その2
この日記での書き方でもわかるとおり、今や問題にすべきは「集団ストーカー」ではないと思っている。私がこの言葉を作った張本人である可能性もある*ので無責任と思われるかもしれないが、この言葉をキーワードにして議論しているといろいろ不都合なことが多いことはネットを見ているとよくわかる。例えば全くこの問題になじみのない人からはこの言葉が与える第一印象から誤解を受ける危険性が高い。ストーカーというのは相手に執着して追い回す者の謂なのだから、集団ストーカー被害に遭っていると訴えると、あたかも大勢の人間に興味を持たれて追いかけ回されていると言っているかのように取られかねない。さらにネット上の工作員が「通りすがり」を装って被害者に「自意識過剰」「被害妄想」「統合失調症」のレッテルを貼って廻る。実際の被害者は(一部の偽っぽい被害者を除いて)そんなことは一言も言っておらず、社会の中に巧妙に張り巡らされた罠のようなシステムに放り込まれただけの無力な市民という自己認識しか持っていない場合がほとんどである。多くの人々から興味を持たれているVIPのような存在だなどと思っているわけではないのにもかかわらず、この言葉の持つニュアンスがそういった初歩的な躓きをもたらしてしまっている。
これまでに書いてきた文章を見てもわかるように、問題にすべきはすでに着々と運用されてきている「全人的監視システム」とも呼ぶべきテクノロジーの存在(加害者自身が何と呼んでいるかわからないが)だと思っている。これがあくまで本丸であって、いわゆる集団ストーカーというのは、このシステムの準備工作、補助的工作、あるいは派生的現象であると位置づけるべき存在であって、本質的なものでは無い。このBMI技術とサテライト技術を駆使して成立している個人監視システムの存在を想定することではじめて、集団ストーカー現象として報告されている、数多くの一見奇怪な現象も一挙に説明できると思うし、そこに生じたまま放置されている数々のミッシングリンクも繋がるのだと思う。このファクターを抜きにいくら議論を重ねても、幹を離れた枝葉をかき集めるような未整理の混乱に行き着くだけであろうと思われる。
要諦だけ言えば、この「全人的監視システム」の開発、導入、運用自体が大きな旨味のある事業になっていて、さらにこのシステムで得られる(建前上の)「監視データ」の一部が裏のエンタメとして流用されていて、実質上「視聴覚盗撮中継」のようなものが成立しており、これらのプロジェクト全体が大きな利権を生み出している、といったような構図になる。「集団ストーカー」を中心にして語った場合にはいささか唐突で大げさに見える、警察や在日米軍、諜報機関、医学系研究機関、IT関連企業、放送メディアといった異色の取り合わせがこぞって参入していることも、このシステムの存在を中心に据えて考えた場合に初めてスムーズに理解される。また、工作にまつわるコストパフォーマンスの問題も、これが一つの事業であってこのシステムを稼働しているだけで関係する各方面が潤うような利権構造が出来上がっており、被害者はそのシステムに放り込まれただけだと考えればいいし、その工作の首尾とターゲットの反応が逐一「視聴者」たちによってモニタリングされているとすれば、工作にかけるモチベーションの高さが維持できるであろうことも理解できる。
このシステムを持ち込んだのは、おそらく世界規模の監視社会を築こうという目論見を抱いている超国家的勢力であろうと思われるが、現在日本は彼らにとってとっくに「水やり」の期間は終わり、果実を収奪している時期に入っているから、彼らの工作資金が隅々にまできめ細やかに注入され、このシステムの維持に使われているのかと言えば、その辺はいささか疑問である。詳細の把握はもちろん私一人の手に余る事だが、多分昭和のある時期までに既に徹底的な工作が行われ、政財界の要人はことごとく飴とムチによって籠絡された。そうして、ゴーサインさえ出せば後は彼らが自発的にこのシステムを維持運営して行くだろうという所まで仕組みが出来上がったところで、ひとまず彼らに委ねられたのではないか。もちろん必要に応じてその後もいくらでも刷り放題の「fiatな」札束を使っての要人の買収と言うようなことは行われているだろうが、現在基本的にこの事業の財源は公的資金が中心だろうと思う。後はこれに参加している宗教団体が、信者から集めた資金を投入している流れもあるかもしれないが、いずれにしろ国内の資金を吸い上げてはこの事業に注ぎ込んでいるという自殺構造が見てとれるので、実業はどんどん痩せ細り、この事業につながるおかしな「副業」に手を出したほうが儲かるという状況が、企業においても個人においても現れている。そしていわゆる売国勢力が、この事業から上がる利益のパイの良いところを食い合っているというのが現状であろう。
*私がA布大学に在籍中のおそらく2000年頃、すでに私の室内での行動、発言が筒抜けになっていると感じ始めていた。とは言え当時はせいぜい学園内といった至極ローカルな規模での話を想定しており、なかなか溶け込まないでいた私に関して一体コイツは何を考えているんだろうと興味を持った学生や教員のグループが、探偵ごっこのノリで壁にコンクリートマイクか何かを仕込んで探りを入れているんじゃないかという程度の認識だった。私もその状況を逆手に取ったつもりで、室内で自己主張の一人語りを展開したりしていたのである。
「集団ストーカー」という言葉もその一人語りの中で出て来たものであり、当然ながら現在において社会問題になっているこの想像を絶するような人権侵害行為全般を言い表す言葉として生まれたものではなかった。ただ実際にはその時点で私はすでに(探偵ごっこでもコンクリマイクでも無い)全人的な監視技術の下に置かれていた筈なので、「本当の」加害者達もこの言葉を聞いていた筈であり、この言葉の持つちょうど良いニュアンスのズレ加減がミスリードのために有効であると密かに目を付けられていたのではないかと思われる。
当時はネットにおいてもまだ集団ストーカーという言葉は使われていなかったが、その後3・4年経ったころ満を持したようにこの言葉がネット界に登場した。デビューの舞台となったのはもちろん2ちゃんねるで、「集団ストーカー」の文言を含むスレッドが雨後のタケノコのように急にあちこちの板に乱立し始めたのである。私は自分が以前思いついたのと同じ言葉を急に頻繁に目にすることとなり流石に戸惑いをおぼえた。ただこのネーミング自体は誰でも考えつきそうなベタなものなので、自然参集的に多くの被害者が結局この言葉に辿り着いたのかもしれないなどと曖昧に解釈していた。しかしその後よしひろとかいう(偽)被害者が2ちゃんねるに現れて、自ら「集団ストーカースレ」を私の行く先々の板にガンガン立てながら、「集団ストーカーという言葉を思いついたのは俺だ!」「集団ストーカーという言葉を使うなら俺の許可を取ってからにしろ!」などと不自然に言い立てはじめたので、なるほどそういうことだったのかと合点した。